永井荷風2

 此う云ふ境遇から此う云ふ先入の感想を得て、私は軈て中学校に進み、円満な家庭のさまや無邪気な子供の生活を描した英語の読本、其れから当時の雑誌や何やらを読んで行くと愛だとか家庭だとか云ふ文字の多く見られる西洋の思想が、実に激しく私の心を突いたです。同時に我が父の口にせられる孔子の教だの武士道だのと云ふものは、人生幸福の敵である、と云ふ極端な反抗の精神が、何時とは無しに堅く胸中に基礎を築き上げて了つた。で、年と共に、鳥渡した日常の談話にも父とは意見が合はなくなりましたから、中学を出て、高等の専門学校に入学すると共に、私は親元を去つて寄宿舎に這入り、折々は母を訪問して帰る道すがら、自分は三年の後卒業したなら、父と別れて自分一個の新家庭を造り、母を請じて愉快に食事をして見やう……とよく其様事を考へて居ましたが、あゝ人生夢の如しで、私の卒業する年の冬、母上は黄泉に行かれた。

 さういふ家庭であるから、季子はそれほど居づらく思ふわけの無い事は、自分ながら能く承知してゐるのだ。自分の方から進んで手傳ふ時の外、洗ひものも掃除も姉から言ひつけられたことはない。兄はまた初めから何に限らず小言がましく聞えるやうな忠告はした事がなく、郵便を出させにやる事も滅多にない。日曜日に子供も一緒に夫婦連立つて買物方々出歩かうと云ふ折など、「季ちやん。一緒に行くかね。」と誘ふこともあるが、是非にと云ふ程の樣子は見せず、さうかと云つて留守をたのむとも言はない。季子はおのづと家に居殘るやうになると、却て元氣づき、聲を張り上げて流行唄を歌ひながら、洗濯をしたり、臺所の物を片づけたりした後、戸棚をあけて食殘りの物を皿まで嘗めてしまつたり、配給の薩摩芋をふかして色氣なく貪り食ふ。又ぼんやり勝手口へ出て垣根の杭に寄りかゝりながら晴れた日の空や日かげを見詰めてゐる事もあつた。

一 小説家二、三人打寄りて四方山の話したりし時一人のいひけるはおよそ芸術を業とするものの中にて我国当世の小説家ほど気の毒なるはなし。それもなまじ西洋文学なぞうかがひて新しきを売物にせしものこそ哀れは露のひぬ間の朝顔、路ばたの槿の花にもまさりたれ。もし画家たりとせんか梅花を描きて一度名を得んには終生唯梅花をのみ描くも更に飽かるる虞なし。年老いて筆力つかるれば看るものかへつて俗を脱したりとなし声価いよいよ昂るべし。俳優には市川家十八番の如きお株といふものあり。演ずる事たびたびなれば、観客ますます喜びてために新作を顧るの暇なきに至らしむ。音曲家について見るもまた然らずや。聴衆の音曲家に望んで常に聴かんと欲する処はその人によりて既に幾回となく聴馴れしもの。即荒木古童が『残月』、今井慶松が『新曲晒し[#「新曲晒し」は底本では「新曲洒し」]』、朝太夫が『お俊伝兵衛』、紫朝が『鈴ヶ森』の類これなり。神田伯山扇を叩けば聴客『清水の治郎長』をやれと叫び、小さん高座に上るや『睨み返し』『鍋焼うどん』を願ひますとの声頻にかかる。小説家の新作を出すや批評家なるものあつて何々先生が新作例によつて例の如しといへば読者忽ちそんなら別に読むには及ぶまじとて手にせず。画工俳優音曲の諸芸家例によつて例の如くなれば益よし。小説家例によつて例の如くなれば文運ここに尽く。小説家を以て世に立たんことまことに難し。

永井荷風

 国府台から中山を過ぎて船橋の方へと松林に蔽はれた一脈の丘陵が延長してゐる。丘陵に沿うてはひろ/″\した平野が或は高く或は低く、ゆるやかに起伏して、単調な眺望にところ/″\画興を催すに足るべき変化を示してゐる。
 市川に移り住んでから、わたくしは殆ど毎日のやうに処を定めずそのあたりの田舎道を歩み、人家に遠い松林の中または窪地の草むらに身を没して、青空と雲とを仰ぎ、小鳥と風のさゝやきを聞き、初夏の永い日にさへその暮れかけるのを惜しむやうなこともあつた。
 然しわたくしの眺めて娯しむ此辺の風景は、特に推賞して人を誘つて見に行くべき種類のものではない。謂はゆる名所の風景ではない。例へば松林の間を貫く坂道のふもとに水が流れてゐて、朽ちた橋の下に女が野菜を洗つてゐるとか、或は葉鶏頭の淋し気に立つてゐる農家の庭に、秋の日を浴びながら二三人の女が莚を敷いて物の種を干してゐるとか、又は、林の間から夕日のあたつてゐる遠くの畠を眺めて豆の花や野菜の葉の色をめづると云ふやうな事で。一言すれば田舎のどこへ行つても見ることの出来る、いかにも田舎らしい、穏かな、平凡な風景。画を習ひ初めた学生のカンバスには一度は必ず上されるべき風景に過ぎない。特徴のないだけ、平凡であるだけ、激しい讃美の情に責めつけられないだけ、これ等の眺望は却て一層の慰安と親愛とを催させる。普段着のまゝのつくろはない女の姿を簾外に見る趣にも譬へられるであらう。

 季子は省線市川驛の待合所に入つて腰掛に腰をかけた。然し東京へも、どこへも、行かうといふ譯ではない。公園のベンチや路傍の石にでも腰をかけるのと同じやうに、唯ぼんやりと、しばらくの間腰をかけてゐやうといふのである。
 改札口の高い壁の上に裝置してある時計には故障と書いた貼紙がしてあるので、時間はわからないが、出入の人の混雜も日の暮ほど烈しくはないので、夜もかれこれ八時前後にはなつたであらう。札賣る窓の前に行列をする人數も次第に少く、入口の側の賣店に並べられてあつた夕刊新聞ももう賣切れてしまつたらしく、おかみさんは殘りの品物をハタキではたきながら店を片付けてゐる。向側の腰掛には作業服をきた男が一人荷物を枕に前後を知らず仰向けになつて眠つてゐる。そこから折曲つた壁に添うて改札口に近い腰掛には制帽の學生らしい男が雜誌をよみ、買出しの荷を背負つたまゝ婆さんが二人煙草をのんでゐる外には、季子と並んでモンペをはいた色白の人妻と、膝の上に買物袋を載せた洋裝の娘が赤い鼻緒の下駄をぬいだりはいたりして、足をぶら/\させてゐるばかりである。

 私の父は或人は知つて居ませう、今では休職して了ひましたが、元は大審院の判事でした。維新以前の教育を受けた漢学者、漢詩人、其れに京都風の風流を学んだ茶人です。書画骨董を初め、刀剣、盆栽、盆石の鑑賞家で、家中はまるで植木屋と、古道具屋を一緒にしたやうでした。毎日の様に、何れも眼鏡を掛けた禿頭の古道具屋と、最う今日では鳥渡見られぬかと思ふ位な、妙な幇間肌の属官や裁判所の書記どもが詰め掛けて来て、父の話相手、酒の相手をして、十二時過ぎで無ければ帰らない。其の給仕や酒の燗番をするのは、誰あらう、母一人です。無論、下女は仲働に御飯焚きと、二人まで居たのですが、父は茶人の癖として非常に食物の喧しい人だもので、到底奉公人任せにしては置けない。母は三度々々自ら父の膳を作り、酒の燗をつけ、時には飯までも焚かれた事がありました。其程にしても、まだ其の趣好に適しなかつたものと見へて、父は三度々々必ず食物の小事を云はずに箸を取つた事がない。朝の味噌汁を啜る時からして、三州味噌の香気がどうだ、塩加減がどうだ、此の沢庵漬の切形は見られぬ、此の塩からを此様皿に入れる頓馬はない、此間買つた清水焼はどうした、又破したのぢやないか、気を付けて呉れんと困るぞ……丁度落語家が真似をする通り、傍で聞いて居ても頭痛がする程小言を云はれる。